プロフィール

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Writer profile
関 あさこ

関 あさこ

早稲田大学人間科学部卒業。大手印刷会社IT部門にて、WEB制作やアプリ企画提案・制作全般の進行管理を行う。
海外事業部にて新規事業の立ち上げを行うと同時に、社内インストラクターとして、 マインドマップ基礎講座やマインドマップを使用した暗記術、クリエイティブシンキング術を社内に展開。

2014年6月より、「自分をデザインできる人を増やす講師」として、 経営者・個人事業主のブランディングを行っている。
頭のと心の整理術「マインドマップ」をメインに取り扱い、自分で自分を紐解いて、問題解決、人生を前へ進める方法を伝えている。
セミナー・講座開催数は200回以上、参加者は700名を超える。(2022年5月現在)
個人セッション・コンサルティング実績は、400名。

  • ThinkBuzan Licensed Instructor courses(TLI)マインドマップ®インストラクターコース修了
  • 才能心理学ファシリテーター養成コース修了
  • 国際催眠連盟 IHF Hypnotist(ヒプノティスト・催眠療法レベル1修了)
  • エゴギョウ研究会®所属

母が3人いた幼少時代

1986年、男女雇用機会均等法が制定された年。

東京都練馬区で、生まれました。

父は銀行員、母は専業主婦。

兄弟はいませんでしたが、祖父母と、父の姉である伯母が同居している、 3世代家族でした。

私が1歳半のときに両親が離婚し、母が出ていきました。

それでも、私は一度も「お母さんがいなくて寂しい」と思ったことはありませんでした。

それは、父の姉である伯母が母親代わりになってくれていたし、
私が6歳の時に父が再婚した母も、本当にわたしをかわいがってくれました。

私のまわりにはいつも誰かしら大人がいたので、 ありがたいことに、不自由なく育ててもらったと、つくづく思います。

一方で、育ての親だった伯母は、中国やモンゴルなどのアジア専門の旅行の添乗員として働いていました。

ひとたび仕事が入ると、1週間~2週間は、海外に行ってしまう伯母。

幼いころは伯母が仕事に出かけるたびに泣きわめいていましたが、 そんな風に、仕事をする伯母を見て、
「すごいなあ、大人になると、たくさん海外へ行って、お仕事できるんだ」(※違います)
とぼんやりと思っていました。

そして、ばりばり働く伯母ではあったけれども、添乗先の海外から、毎日幼い私が寝る前に、電話をかけてくれたこと。

いま思うと、どれほど電話代をかけてくれたのだろうと思います。

いつしか、私の目標は、伯母のように「家族を大切にできる働き方をすること」になりました。

今の私のルーツを作ってくれた家族には、本当に感謝しています。

正解探しを続けていた学生時代

「家族を大切にできる働き方をすること」が漠然とした目標ではあった私ですが、では何をしたらいいか? と考えると、いつも「正解」を探していました。

そして、わかりやすく「優等生」になることが、もっとも家族が喜んでくれることだ!

そう思い、「親や先生が『喜んでくれる』ことかどうか? が選択の基準になっていました。

今思うと、「この道だったら安心!テッパン!!」と思える道を進みたかったんですね。

つまり「正解」を「外側の基準」に合わせてる毎日でした。

そんな風に、いつも、自分が「周りからどう見えているか?」ばかり気にしていた学生時代だったように思います。

大学時代―台湾留学で学んだこと

そんな私が、初めて「私は本当は何をしたいんだろう?」と考えさせてくれたきっかけ。

それは…大学3年生の時に、1年間留学していた台湾での生活でした。

なぜ留学したかというと、「留学していたほうが、就職にも有利なのかな?」くらいな気持ちで。

なぜ留学先に台湾を選んだかというと、尊敬する伯母も、台湾に留学していたから。

そんな単純な理由で、1年間、留学させてもらいました。

それまで、実家暮らしで、何不自由なく生活してきた私が…。

つたない中国語で賃貸物件を探して、
一人暮らしをはじめ、
湿気が多い台湾の室内で洗濯物を干して、
部屋をカビだらけにしては 大家さんに激怒され、
泣きながらアルコールで部屋のカビを拭き取ったり。

ビザの有効期限を忘れて不法滞在になりかけ、
同級生の日本人の駐在妻の奥さんに助けをもとめて、
沖縄に一日日帰りして、
観光ビザで乗り切ったり。

怪しいマルチの勧誘や新興宗教に引っかかりかけて、
日本の友達の必死の説得により、
なんとか被害を回避できたり…。

いま思うと、危ない橋を結構わたっていた1年間だったなと思います笑。

そして、
「わたしは、一人ではなんにもできないんだなあ・・・」
と、 自分は実は、何もできないということを、 つくづく実感する1年でした。

同時に、異国でも、こんなに助けてくれる人がいる・・・。

そのありがたさに、何度涙したかわかりません。

「困っている人がいて、何か自分でできることがあるのなら、それをやらない意味はない。」

台湾での生活をきっかけに、この言葉を、大切にするようになりました。

私は何をやりたいの?

台湾生活でのあるとき、同じく留学生だったイギリス人の男の子に尋ねられました。

「僕は、将来、起業したいと思っているんだ。
今は、パソコンひとつ持っていれば、どんな知識も得ることができる。
オフィスがなくても、自分でビジネスができてしまう。
でも、他の国の人がどんなことを考えているか、とか、 人間の価値観だけは、自分で体験しないと、わからない。
これからはアジアが発展していくのはわかりきっていることだし… だから、台湾に留学しに来ているんだ。
いろんな人の考え方を知りたくてね!
で、アサコはなんで台湾に留学しているの?

その問いに、私は答えられませんでした。

同じ20歳だった彼と、私の明らかな違い。

それは、 「自分の考えを持っていて、それを伝えることができたかどうか。」

わたしはそれまでずっと、「正解」を教えてもらって生きていました。

「じゃあ、あなたは何をしたいの?」

そう問われたときに、自分がどれだけからっぽであるか気づきました。

わたしは、それまで、家族と先生が「いい!」というかどうか、 でものごとを判断していました。

だから、「自分の意見」がありませんでした。

人の名言を、さも自分の言葉かのように言うことばかり得意でした。

これからは、誰のせいにもしない、「自分の基準で選んだわたしだけの人生」を生きよう!

台湾留学の一年間は、私にそんな意志をくれました。

IT企業への就職

台湾留学から日本に戻ってくるとすぐに、就職活動が始まりました。

「他人の基準でなく、自分の基準で人生をつくる!」と決めた私。

とはいえ、「自分の基準」がそれまでなかったので、 就職活動は、何をしても悩み続ける毎日でした。

「わたしは何が得意なんだろう?」
「わたしは何が好きなんだろう?」
「わたしが役に立てることはなんだろう?」
「わたしが一生続けられることはなんだろう?」

毎日、自分に問い続けました。

そして、ついに、この時は、納得のいく答えが見つかりませんでした。

むしろ、自分以外の大学生は、こんなに短期間で、自分のやりたいことを見つけ出し、 そして、その「やりたいこと」を叶えられる就職ができるのか…。

そっちのほうが信じられない思いでした。

が、そんなことも言っていられませんでした。

おりしも、リーマンショックが起こった直後の就職活動だったのです。

それでも私は、何社受けても、「これこそがやりたかったことだ!」と思える会社には出会えませんでした。

でもそれは、リーマンショックが原因ではなかったのです。

「情熱のこもった志望動機」が語れない私だったから、採用試験も落ち続けたのだと思います。

そして、あるとき、観念しました。

「たぶん、私の『自分の基準づくり』は一生続く。」

それを受け入れたとき、道が開けました。

「自分の基準づくり」が一生つづく私には、 「自分を表現すること」は私に、一生つきまとうものだろう。

それならば、自分を表現できるツールとしての「メディア」を扱う企業に就職しよう。

そう思えたとき、初めて、心から行きたいと思える企業に出会うことができ、 ご縁あって、採用通知をもらえたのでした。

印刷会社のIT部門、Webサイトやスマートホンのアプリケーションを創る会社でした。

終電帰り、土日出社の会社員生活

念願の「自分を表現するツール」=「メディア」を扱う企業に就職できた私。

ありがたいことに、希望していた「企画提案・ディレクター」の部署に配属されました。

最初は、とにかく、自分でお金を稼いでいること、 毎日、会社に通うことが楽しくて仕方がありませんでした。

入社3か月後から、終電帰りの毎日だったとしても… 突き詰めたい「メディア」という仕事にかかわれていることに、 喜びとアドレナリンが大放出!

少しもつらくありませんでした。

でも、そんな生活が2年続いたころ…持病のアトピーが、大爆発したのです。

もともと、人よりも体力がなかった私。

アトピーは、疲れている時やストレスが溜まった時に ひどく出てしまいます。

毎日終電で帰る生活をした結果、 ひどいアトピーで睡眠不足とかゆみに苦しめられるようになりました。

そして、家と会社の往復だけの生活に、身体も心も疲弊していました。

でも、自分の仕事ぶりに自信がなかった。

だから、終電まで働いて、土日も出勤し続けました。 多くの時間を費やすことで、評価されようと、必死だったのです。

そんな状態の私に転機が訪れたのは2012年のことでした。

少しずつ、認知症が進んでいた祖母が、 家で転んで、足の骨を折って、入院します。

入院して、ただ寝るだけの毎日になった祖母の痴呆は、 驚くべきスピードで進行していきました。

毎回、お見舞いに行くたびに、 私を覚えていてくれるのか、心配で仕方ありませんでした。

それでも、平日は終電まで仕事、土日も出社することが少なくなかった私。

祖母のお見舞いは、1週間に1度行けたらいいほうでした。

あるとき、お見舞いにいった私に、 祖母が言いました。

「あなたはとっても優しいのね。他の看護婦さんと違う。」

祖母が、私を孫だとわからなくなった瞬間でした。

私は、どうしてもっともっと、お見舞いに来なかったのだろう。

激しく後悔しました。 毎日でも、通えばよかったんだ・・・。

いつの間にか、また、
上司に評価されること、得意先に喜んでもらえること…
それらの「他人の基準」で生きてしまっていたことにも気づかされました。

幼いころ、立てた目標…「家族を大切にできる働き方をすること」。

そして、台湾留学時代に決めた意志…「自分の基準で人生を生きること」。

目標と意志の、いつしか正反対の働き方をしてしまっていた自分。

もう、こんな生活はやめよう! そう決心しました。

そして、何をどうしたら、自分の生活が良くなるのか? 自分の人生が幸せに向かうのか?

「このままずっと自分に自信がないまま、混乱したままでいるのは嫌だ!!」

ようやく自分を変える決断をしました。

マインドマップとの出会い

自分を変えるために私がまずやったこと。

それは、手あたり次第、様々なセミナーを、受けてみることでした。

スケジュール管理のセミナー、
コピーライター養成講座、
速読ができるようになるセミナー、
自己啓発のセミナー、
果ては合気道まで(ええー)、
たくさんのセミナーを受けました。

だけど、いまいちピンと来ないどころか、ますます混乱していきました。

そんな時に出会ったのが、マインドマップです。

「仕事の効率が上がる」と書いてあったので、 藁にもすがる思いでした。

マインドマップのセミナーを受けてみて、 まず、なぜほかのセミナーで、 私がますます混乱したのかがわかりました。

それは、根本的に、自分の方向性が定まっていなかったからでした。

その状態で、スケジュール管理や、 コピーライティングや、 速読や、 自己啓発を学んでも、 ゼロに掛け算をしていくようなものでした。

マインドマップを学んで、 自分の頭の中を整理したことで、 わたしは、自分の人生の方向性を 見つけることができました。

さらに、マインドマップは、 日常の様々なことに、 非常に実践的で、効果的なものでもありました。

私は、仕事のあらゆるシーンで、マインドマップを使い始めました。

毎朝、出社後、「今日のやることリスト」を。
電話メモを。
会議の準備メモを。
上司の指示内容を。
得意先のリサーチのまとめを。
会議の議事録を。
提案書のアイデアだしを。
クレーム内容とその解決策を。
こんがらがった案件の残件と対応策を。

すべてすべて、マインドマップで描き、まとめていきました。

様々な色で、大きなスケッチブックに、 書いては書いては、それをちぎって、また書き込む。

繋ぎ合わせては、再度まとめる。

そうして、毎日最低5枚以上は書いていました。

煮詰まった会議では、ホワイトボード上に巨大なマインドマップ描きました。

こうして解決案をまとめていくのも、本当に役に立ちました。

そうするうちに、あるとき、ふと気づきました。

あれほど、「それでいい」と言ってほしかった上司へ。

「そうするより、こうするのはいかがですか?」 など、意見をできるようになっている自分に。

そして、その意見やアイデアを、資料にしたり、 プレゼンにして、形にすることができている自分に。

いつの間にか、与えられる仕事も、変わっていました。

以前なら、怖気づいて、 断ってしまったかもしれないような仕事をしていました。

仕事が、楽しくなっていたのです。

そして、マインドマップを習って、 半年後には、私は、定時である19時には、 退社できるようになっていました。

念願だった祖母のお見舞いにも、 これまでよりもより頻繁に、 仕事帰りに行けるようにもなっていました。

嬉しくて、泣けたのを、今でも覚えています。

その後も、残業するときはありましたが、 「自分のこだわりを追求したい」という気持ちからの残業に変わりました。

また、これは意図していなかった効果ですが、 「関さんの議事録がクオリティ高く正確すぎる。録音した?」 と、聞かれました。

また、一夜漬けで資格試験に、合格したりしていました。

前日の夜10時から勉強を始め、マインドマップ4枚にまとめて、臨みました。

ダメ元だったのですが、受かったときには、 「マインドマップって、なんてすごいんだろう」 と、感動しました。

マインドマップのおかげで、私の人生は、一変しました。 マインドマップがなければ、きっと、 今も、不安で苦しい毎日だったと思います。

2014年、独立。そして結婚

そうして、マインドマップを描きつづけるうちに、 「マインドマップそのものを伝える仕事」に興味を持ち始めました。

会社でマインドマップを描いていると、 「何それ?教えて~」と言ってくれる人も多くいました。

「こんなに素晴らしいノート術を、 私の人生を変えてくれたノート術を、もっと多くの人に知ってほしい!」

わたしは、その強い思いから、 マインドマップのインストラクターの資格をとりました。

そして、「必ず業務効率化の役に立ちます!」と会社に掛け合って、 社内でマインドマップを教える講師もさせてもらえるようになりました。

たくさんのわたしの想いを受け取ってくれた上司と、勤めていた会社には… 本当に、感謝しかありません。

そして、当時、社内恋愛をしていた彼が、 故郷の新潟に転職したいと言い出したのをきっかけに…。

大好きなマインドマップや「自分を見つけること」のコーチングで、 独り立ちしたい! という思いから、独立をしました。 2014年の6月ことです。

その後、新潟と東京を、毎月行き来しながら、 マインドマップのセミナー講師や個人コンサルティング、 ホームページ制作などの仕事をする日々を5年過ごしました。

2018年の3月に、主人の東京への転職を機に、5年間の新潟⇔東京間のデュアルライフを終え、東京に戻ってきました。

現在も、頻度は減りましたが東京と新潟を行き来するスタイルは変わらず、むしろ仲間に会いに、大阪や京都に日帰りで通ったり、以前よりも様々な場所に出かけて行って仕事をしています。

パソコン一台持っていれば、どこでも仕事ができるので、 祖母の最期のときも、祖母の看病をしながら、枕元で仕事をすることができました。

家族を大切にできる働き方をする。自分が大好きなことを、強みを活かして仕事にする。

念願であったこの夢が達成できていることに、 心から感謝しています。

これからも、より多くの方に、 マインドマップを活用してもらいたい。

自分のことを自分で見つけられるようになってほしい。

自分の大好きなことを仕事にしてほしい。 後悔しない人生をおくってほしい…。

そして、 「自分の基準で生きる人」 「混乱することなく、楽しく前に進んでいける人」 が、ひとりでも増えるように…。

私は、「自分をデザインできる人を増やす講師」として、 これからも、お伝えし続けていきます。


P.S.表ではちょっと言えないような、
「頭と心を整理して人生を前へ進めるための帝王学」をメルマガではお伝えしています。↓↓↓